「猫と娘」      浅田次郎(作家)


 一人娘が高校の理科系進学クラスを希望したときには、いささか首をひねった。

 私は足し算も満足にできぬ文学バカであるし、読書が縁で結ばれた妻も大学の専攻は英文学であった。一族郎党を見渡しても、理数系の遺伝子は皆無なのである。

 だからと言って反対をする合理的理由にはならぬが、「自分の資質を見誤るなよ」という程度の説諭をした記憶はある。

 まさかと思う間に、娘は東北の大学の医学部に合格して、さっさと家を出て行ってしまった。父母と別れることにはさして感慨がない様子であったが、ともに育った十匹の猫たちには未練がましく別れを告げていた。

 その姿を見ながら、私はふと思い当たった。わが家は昔から猫まみれである。娘が物心ついた時分には、最大限の十三匹が狭い借家に溢れていた。数が多いと健康の管理に目が行き届かず、また交通事故に遭って無念の最期を遂げる猫も多い。そうした環境に育った娘は、生命の尊厳について考えるところが大きかったのではあるまいか。

 娘が知る人のひとりとてない北国の町に去ってしまうと、家には文学バカの夫婦とその老母と、十匹の猫が残された。

 
 やがて娘は、独り暮らしのアパートで猫を飼い始めた。猫のいない生活を知らないのだから仕方がない。素性の正しい猫は飼わないというわが家の伝統に従って、雪の夜道で鳴いていたキジトラの仔猫を拾ってきたのだった。猫には「モモ」という名を付けた。あたりまえの猫にあたりまえの名を付けるのも、わが家のならわしである。

 モモは初めのうちこそ娘の孤独と無聊を慰むるのにたいそう役立ってくれたのだが、次第にそうとばかりは言えなくなった。学年が進むにつれて医学部のカリキュラムはあわただしくなる。深夜まで実習にたずさわったり、休日も登校しなければならなくなった。いきおいアパートで缶詰にされたモモは、運動不足で十キロの巨猫に成長し、ストレスが昂じて床も壁もボロボロになった。

 そこで致し方なく、モモは飼主の実家、すなわち東京のわが家に引き取られることになった。

 わが家の十匹の猫はすべて血脈を持っている。父と母と子供らのファミリーである。

 そこに若くて巨漢の、どう見ても牝とは思えぬモモが引越してきた。ファミリーは白と三毛ばかりだが、似ても似つかぬキジトラである。毛色もちがえば顔つきもちがう。

 いじめられるわけではないのだが、モモはほかの猫たちを怖れていた。何しろ猫という生き物を知らなかったのである。日がな部屋の隅にちぢこまって、少しでもほかの猫が近寄ろうものなら唸り声をあげ、食事も隙を見てこそこそとすませる姿を見ていると、胸が痛んだ。

 見知らぬ街で、縁もゆかりもない人々に囲まれて暮らしている娘の姿が重なるのである。かけがえのない友人であるモモを、思い屈して手放そうと決めたときはさぞかしつらかったであろう。

 私にもいくどか経験はあるが、自分の人生と猫の猫生を秤に載せなければならなくなったときは、まことにつらい。人と別れるほうがよほど簡単だと思う。


 娘は大学を出ると、さらに遥かな北国の病院で研修医として働き始めた。

 モモはいまだに猫たちとなじめず、昼は書斎で過ごし、夜は猫禁制の寝室で私の腕に抱かれて眠る。もしかしたらもう私の許には戻ってこないかもしれぬ娘を、夜ごと抱いているような気になる。

 猫が生命の尊厳を娘に教えたように、私の小説の師もやはり猫なのであろう。

 いやはや、猫にことよせてつまらぬ私事を書きつらねてしまった。


浅田次郎(あさだ・じろう) 1951年(昭和26)東京都生まれ。自衛隊員、アパレル業界など様々な職につきながら投稿生活をおくる。94年(平成6)『地下鉄(メトロ)にのって』(徳間書店)第16回吉川英治文学新人賞受賞。96年『蒼穹の昴』(講談社)が直木賞の候補作となり、翌年『鉄道員』(集英社)にて第117回直木賞。00年『壬生義士伝』(文藝春秋)で第13回柴田錬三郎賞。代表作に『五郎治殿御始末』(中央公論新社)、『絶対幸福主義』(徳間書店)、『天国までの百マイル』(朝日新聞社出版局)ほか。『民子』(角川書店)は猫好きなら誰もが涙を流した、御存知「マルハペットフード」のCMを写真集にしたもの。