「モモちゃんの行方」      車谷長吉(作家)


 昭和五十八年八月四日、私はふたたび無一物で東京へ出て来た。そして自山前町の白山グリーンハイツに1DKの部屋を借りた。新潮社から原稿料の前借りをして、敷金・礼金・家賃・不動産屋手数料を払ったのだった。その時、このハイツの管理人のおばさんが「あなたの隣りの部屋には、東大のえらい先生が入っていらっしゃいます。」と、さもさも特別にえらい人が入居しているように言うた。日が経つにつれ、この「えらい先生」は、詩人にして東京大学佛文科助手の松浦寿輝氏であることが分かった。当時、私は三十八歳だった。

 二年ほどして、松浦氏は結婚してどこかへ引っ越して行った。そのあとで、結婚のお祝いものが次ぎ次ぎに私の部屋へ届いたので、松浦氏が華燭の典を挙げたことが知れたのである。その跡へ高橋正憲氏という人が入って来た。この人は絵錨きだったが、絵だけでは飯が喰えないので、建築デザイナーのようなことをしていて、隣室はその仕事部屋で、近くに自宅があるらしかった。時々、奥さんとお嬢さんが訪ねて来た。

 高橋氏は仕事部屋に「モモちゃん」というシャム猫を飼っていた。昼間は窓から外へ頚に紐を付けて、出してあった。可愛い猫だった。私は時々、頭をなでに行った。ところがこの猫を、前の家の餓鬼が棒でたたきに来るのである。モモちゃんは悲鴫を上げる。すると高橋さんが部屋から飛び出して来て、男の子を叱る。高橋さんが留守の時は、私が飛び出して行って、捧を取り上げ、逆にその餓鬼を棒でしたたか殴った。すると餓鬼は泣き叫び、家へ駆け込んで、母親に言いつける。すると母親は私の部屋へ怒鳴り込んで来る。私は黙って押入れから日本刀を出して、鞘を払う。ぎらりと光る白刃を見た母親は、恐怖の色を目に浮かべて、帰って行った。

 そういうことから、だんだんに高橋正憲氏と親しくなった。高橋氏によれば、モモちゃんはピアニストの中村紘子さんの母上が銀座で画廓を経営なさっていて、その母上からいただいた、ということで、紘子さんちの猫ときょうだいだ、ということだった。それがたいそうご自慢なのである。普段、モモちゃんは紐で繋がれているが、時折、その紐を外して、逃亡し、三軒ほど先の屋根の上に上って鳴いていることがあった。すると高橋氏は、箒の先に鰹節をぶら下げて、モモちゃんを下りて来させようとするのであるが、モモちゃんの方ではタ暮れになるまで、決して下りて来ないのだった。

 また、モモちゃんは、私が部屋で一人で刺身を喰うていると、匂いを嘆ぎつけて、入って来るのだった。「猫は烏賊の刺身を食べると、腰を抜かす」と言うが、モモちゃんも烏賊の刺身が大好きで、ねだりに来ると、私も嬉しいので、次ぎ次ぎにやっていた。別に腰を抜かしはしなかった。雲丹の刺身なども大好きで、私が昼から刺身で一杯やっていると、必ず入って来るのだった。酒も呑まそうとしたが、併しモモちゃんは清酒も麦酒も決して呑もうとしなかった。

 するうち、高橋氏がモモちゃんが私方で刺身を食べていることを嗅ぎつけ、「車谷さん、モモに刺身を喰わせないで下さい。うちのキャットフードを食べなくなりました。前足で蹴飛ばすんです。」と言われた。伴しそういう飼い主の心配をよそに、モモちゃんは執拗にねだりに来るのだった。私はモモちゃんが舐めた皿を、自分でも舐めるほど、この猫が好きだった。

 そういう時間が四年近く続いた。ある日、地上げ屋が私たちのハイツヘやって来た。「立ち退けッ。」と言うのである。私は友達に、その友達の弁護士に立ち退き料について問い合わせてもらった。世間の相場では、家賃の五倍だということだった。

 それでは三十五萬円である。私は少し少ないなと思うたので、三度目に地上げ屋が押しかけて来たた時、「あんたの事務所で話しよやないか。」と言うて、地上げ屋の事務所へ乗り込んで行った。親分から、現金で百萬円取った。そして小石川宮下町へ引っ越した。

 ところが高橋氏はお人好しだったので、相手の言いなりになり、同じ白山前町のマンションの一室へ越して行った。とてろがそこはペットを飼ってはいけないという決まりがあり、はじめのうちは大家に隠してモモちゃんを部屋に連れていたが、ある日、ばれて、モモちゃんは追い出されることになった。高橋氏の事務所の元従業員のアパートヘもらわれて行った。その元従業員の女は、白山前町とは隣り町の駒込千駄木町にいたので、私はそこへ一度、訪ねて行った。うす汚い木造アパートだった。名前が何と「モモちゃん」から「ごん」に変っていた。女が「ごんッ。」と呼ぶと、膝へ乗るのである。私は何か失望を感じた。それから十六年、モモちゃんに逢うたことがない。

 恐らくはもう死んだことだろう。私もあと十六年もすれば、死んでいるだろう。


車谷長吉(くるまたに・ちょうきつ)1945年(昭和20)兵庫県生まれ。慶応義塾大学独文科卒。広告代理店などに勤務後、八年程料理人として各地を転々とする。81年(昭和56)「萬蔵の場合」で芥川賞候補に。92年(平成4)「鹽壺の匙」で三島由紀夫賞並びに芸術選奨文部大臣新人賞受賞。96年(平成8)「漂流物」で平林たい子文学賞受賞。同作は第113回芥川賞候補にも。01年(平成13)「武蔵丸」で川端康成文学賞受賞。98年「赤目四十八瀧心中未遂」で第119回直木賞受賞。03年には映画化。夫人は詩人の高橋順子さん。