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「魂、おくればせの昇天」 篠原勝之(ゲージツ家)
東京下町の工場が手狭になり、甲斐駒の麓に本格的なFACTORYを建て十年が過ぎた。オブジェ倉庫になったままの下町工場を引き払い、今後の創作を山奥のFACTORYのみで続けることにして、片付けだしたものの、引っ越し魔だったさすがのオレも、積み重なったジカンの断層にはウンザリしたものだった。発掘調査のような作業もついにコンクリートの床に到達し、<貴重品>と書かれた懐かしい段ボール箱が現れた。
サハラのヴェドウィンから手に入れた砂漠の薔薇、ナイロビの裏町で買ったエロティックな鋳造の人形、モンゴルの長老がお守りにくれたナイフなど、オレの気に入りだった宝物が中に詰まっていた。当時、掌にしばらく弄んでは馴染むと満足してこの段ボールに仕舞い込んだ。何かの拍子に記憶の底から宝物が浮き上がることがあっても、横着なオレはそれ以上辿ることはしなかった。宇宙から来たコブシ大の<鉄隕石>、太古の<アンモナイト化石>、マサイ族の<ビーズのブレスレット>、掌のなかでジカンを溶かしていく。尚も探る指先に硝子が当たった。
ニス色した<ラッキョ>の小瓶である。蓋が開閉を拒絶するかのように、ガッチリと錆びついているのだ。液体のなかでゆっくり漂う海鞘色の謎めいたギンナンを隠蔽していた。去年の五月、さんざん探したが見つからなかったモノだった。『アイツに返してやりたかったんだが…』。他の宝物を放りだし、しみじみ小瓶を眺めていた。
五月一日の明け方、一緒に過ごしてきたアイツの二十四年が、オレの腕のなかで終わろうとしていた。オレの手首辺りで弱々しく刻んでいた生命が最後のひと搾りになり、美しかったエメラルドの眼が次第に輝きを失ってダークグレーになっていった。
「終わったなぁ」。哀しいよりホッとした気分で、単なる真っ黒い毛皮の縫いぐるみになってしまったガラを強く抱きしめた。間もなく、目覚めた時のように後ろ肢を延ばし、続いて前肢も踏ん張ったからトンでもなく長くなった。硬直が始まったのである。寝床にしていた青い座布団に横たえると、天翔るガラになった。魚釣りで使っているクーラーボックスをガラの霊柩車にしたが、大きくなっちまって入らない。ゆっくり関節を折り畳み何とか納め、アズサに乗って甲斐駒の麓のFACTORYまで運んだ。アカマツ林に埋葬して、オレが刻んだGARAの墓石を載せた。
ガラは、友人の南伸坊の家で七匹生まれた猫のなかで、貰い手が付かなくて最後に残った一匹だった。生後半年目で雄同士の闘いに敗れ、傷だらけでモジモジと戻ってきたあまりにも無惨な様に、一大決心をした。家賃一万八千円に棲んでいたオレにとって八千円は致命的な出費だったが、キンタマ摘出手術を受けさせたのだ。病院から連れ戻りバランス悪そうに歩くガラの姿を、不憫に思ったがアトのマツリだった。心が痛むあまり取り乱したオレは病院にとって返し「八千円のキンタマを返してくれ」と騒いだ。獣医は怪訝な顔になり、「こんな瓶しかないけどホルマリンに漬けましたから」と透明な液体にキンタマが漂うラッキョの小瓶を返してくれたのだった。
ガラは興味なさそうに顔を背けたし、宝箱に入れたままになってしまい、転々と繰り返す引っ越しに紛れてオレもガラもいつか所在すら忘れていたのだった。
墓石の下に小さな穴を掘ってラッキョの瓶を割り、キンタマをガラの元に返した。二十五年のローンを終えた気分で一服吸ったタバコを線香がわりに立てた。丁度一周忌の頃だった。
篠原勝之(しのはら・かつゆき)1942年北海道生まれ。17歳で上京後、武蔵野美術学校に入学。グラフィックデザイナー、絵本作家、画家を経て状況劇場のポスター、舞台美術を手がけた後、86年「鉄のゲージツ家」宣言。廃鉄の溶接に始まリ、鋳鉄、ガラス、土、石などを素材に光・風・水・土や自然が放つエネルギーに呼応するダイナミックな造形を国内外で精力的に創作。モンゴル、サハラ砂漠、インド、フィンランド、など国境を越えた独自の創作スタイルを貫いている。02年以降はミラノ、ベニス、パリ、ニューヨークで展覧会が開催され、海外でも注目を集めている。著書に『人生はデーヤモンド』(角川書店)、
『クマさんのゲージツ日誌』(毎日新聞)、『蔓草のコクピット』(文藝春秋)など
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