|
「漱石夫人と猫」 半藤末利子(エッセイスト)
毎朝雨戸を繰るが早いか、ニャンと鳴いて家に飛び込んでくるノラ公をモデルにして、百年前に書いた小説『吾輩ハ猫デアル』で夏目漱石は一躍文名を馳せた。祖母鏡子(漱石夫人)に言わせれば、そやつは端から図々しかったそうな。それで鏡子ははじめの頃は追い出したり物差しでピシャリとひっぱたいたりと虐待を繰り返していた。が、ある日肩凝り性の鏡子の治療に来るあんま師が、そやつを膝に抱き上げ念入りに調べあげた揚句に、「奥様、この猫は爪の先まで黒うございますから福猫でございますよ。お飼いになるとお家が繁盛いたします」と宣もうた。福猫と聞くや鏡子は掌を返したようにそやつに好待遇を与えた。たとえば小説にあるように鰹節をふりかけた御飯に昇格したようである。そやつ初代は明治四十一年に名もなきまま逝ったが、以後大正五年に漱石が亡くなるまで、代々四匹の猫が飼い継がれた。
漱石没後も鏡子は柳の下の泥鰌を狙って、只管猫を飼い続けた。私が鏡子の家を訪れるようになった頃(昭和十年代中頃)には、常時四・五匹の猫が縁側や座敷にたむろしていたが、いずれも神秘性や高級感など皆無の薄汚く品のない日本猫であった。何せ初代が爪の先まで真黒であったがために福を招き寄せた、と鏡子は堅く信じていたから、これらのニャン公もつめは先まで黒かったのかもしれない。だが毛色は黒(一匹は必ずいた)のみならず茶虎あり三毛あり白黒ありと多様であった。その頃にはまだ独身であった叔母達・叔父達がいたのだが、邪険に扱わないまでも鏡子を初めとする夏目家の人々が猫を愛撫する様を見たことがない。皆およそ無関心で、名すら呼んだことがなかったから、あの複数のニャン公共も名無しであったのかしら。
それでも鏡子があたっている行火にかけられた彩りも華やかな縮緬の布団の上に猫が丸まって寝ていたりすると、それは妙にしっくりと合っていて、子供心にもどこか懐かしい風景か絵画に出会ったような心地よい安らぎに包まれるのであった。
名をつけてもらえなかろうと、猫っ可愛がりされなかろうと何のその、初代同様図々しかったのか、夜寒の季節ともなればニャン公共は遠慮会釈なく家族の誰かの膝の上に鎮座ましましていた。
朝寝坊のために鏡子は遅い朝食を摂るのだが、火鉢の脇に座ってパンとサラダと紅茶が運ばれてくるのを待つのが常であった。(夏はどうだったかは覚えていない)すると決まってのこのことどこからか這い出してきて鏡子の膝の上にちゃっかりと陣取って待機する奴がいる。火鉢の五徳の上に置かれた餅あみの上で裏表こんがりと狐色に焼かれたパンに鏡子がバターを塗り始めると、そいつは身を起こし前脚を伸ばしてパンを取ろうとする。と、本当はバターの香りに誘われてパンを欲しいとせがむ猫の気持ちも察せずに、「今やるよ」と一喝して頭をパチンとぶっ叩いてから、鏡子はおもむろにバターのついていないパンの耳をちぎってそいつに与えるのである。少し不満げながら、そいつはパンの耳を貪り食べていた。昭和二十年代の後半であったと思うが、人間同様その頃の猫はさすが戦後の食糧難に耐えてきただけあって、現代の飽食の時代の猫のように餌の選り好みなどしなかったのである。
もう一匹印象に残るおかしな猫がいた。一時鏡子の家に住まわせて貰っていた私の長兄が、酔っ払って帰宅する折、畑の中にあわれ気に鳴く小猫を見つけた。無視して通り過ぎようとしても足にまとわりついて離れない。無類の動物好きであった兄はたまりかねて、遂に抱き上げ、鏡子の許しも得ずにその子を家に持ち帰った。翌朝台所の籠の中のキャベツや胡瓜が齧られている。次の夜もその次の夜も同じことが続いた。「あら、猫を飼っているのにどうして?」と皆はてっきり鼠の仕業だと思い込んでいたが、ある夜お手伝いさんがそっと台所を覗いてみると、何とまあ野菜をバリバリ齧っていた真犯人は夏目家の猫共に仲間入りしたこの新入りであったとか。長兄によれば、長らく畑の中で暮らしていたので野菜が大好物となった、ということである。
なぜ、代々一匹ずつ飼われていた猫がいつの間にか複数になってしまったのか。きっと何代目かを調達する際に、雌の子猫がもらわれてくるという手違いが生じたのであろう。その上に雌猫が子を生むたびに、まだ目も開かない子猫達を、鏡子は一匹ずつひっくり返して「これは牡だ」と即座に決めつけ、残しておくようにと命じるのだそうである。ところが牡猫の筈が年頃になると腹を膨らませ、鏡子の目が節穴であるのを嗤うかの如くにポコポコと子を生んでしまう。鏡子と最後まで暮らした栄子叔母は「お祖母ちゃまって全然わかってないのよ。だのにそのまま飼うように命令するから増えて困っちゃうわ」とぼやいていた。何もしない鏡子に代わって一切の世話をせねばならぬのは栄子であったのだから。
こうして数こそ増えたものの、鏡子が亡くなるまで柳の下の泥鰌は遂に見つからなかったようである。それを思えば、初代は何という傑物であったことか、と改めて感心させられるのである。
半藤末利子(はんどう・まりこ)1935年(昭和10)、作家の松岡譲と夏目漱石の長女・筆子の四女として生まれる。上智大卒。夫君は半藤一利氏。著書に『夏目家の糠みそ』、『漱石夫人は占い好き』(PHP研究所)
|