「一年ののち」      小池真理子(作家)

 昨年の三月四日。朝から空は青く晴れわたり、住んでいる軽井沢も春めいて温かい日だった。

 その日は、東京の芸術座で私の原作が舞台化され、上演される初日だった。原作者として、どうしても舞台に出向き、出演してくださる俳優さんたちやスタッフの方々を激励しなければならない立場にあった。猫が死にかけているからと言って、欠席することはできなかった。

 十七歳になったゴブが入院して、一週間たっていた。甲状腺機能亢進症。過剰に分泌される甲状腺ホルモンが、小さな心臓に魔の手を伸ばし、過度の頻脈から呼吸困難を引き起こした。ゴブは終日、病院の高濃度酸素室から出られなくなった。むろん、酸素室から出して車に乗せ、自宅に連れ帰ることは、絶対に不可能だった。

 毎日、夫とふたり、病院に通った。ドククーがとても優しい方で、私たちのためにほんの数分ではあったが、ゴブを酸素室から出し、小部屋で会わせてくれた。

 最盛期は四キロあった体重も、ニキロを割った。ゴブは三毛猫の柄をした、小さな小さなおとなしい、紙のように軽い身体になっていた。

 前日の三日、雛祭りの日、「ゴブちゃん、頑張ってますが、もう何も食べてくれなくなりました」と、目に涙をにじませながら、ドクターが言った。深夜、水を飲もうとして、水入れ容器に顔をつっこみ、そのままカ尽き、危うく溺れそうになった、とも聞いた。聞きながら、号泣した。人の前であんな泣いたのは初めてだった。

 今日あたり、危ない、と思っていた。舞台が終わったら、とんぼ帰りで軽井沢に戻るつもりでいた。せめて私が東京から帰るまで、命の灯を消さないで、と願った。明日までもってくれたら、もう一度会える・・・・・。

 だが、私の悲しい直観はあたった。その日、舞台終了後、少したって私の携帯が鳴った。「これから病院に行ってくる」と夫が言った。「だめらしい」と。

 わかった、と私は言った。気味がわるいくらい冷静でいられた。覚悟はできていた。この事実を受け入れなければならなかった。それが、ひとつの命を狂おしく愛したものの務めでもあった。

 自宅に戻ると、夫が一週間ぶりに連れ帰ったゴブがいた。いつもの丸い籐の籠に入っていた。マスカット色をした目がぱっちり、開いていた。生きているようだった。苦しんだ様子はなかった。

 病院できれいにしてもらったらしい。飲みこめずに口からこぼしてしまうフードのせいで、茶色い毛玉ができていた白い毛も、元通り美しくなっていた。もう苦しくないよ、と話しかけ、抱きしめ、キスをした。やっと大好きなおうちに帰れたね、よかったね、と囁き続けた。だが、あとからあとから鳴咽がこみあげ、声にならなかった。

 あれから一年と四か月。ゴブの亡骸は荼毘にふし、骨壼に入れてそのまま自宅に置いてある。

 祭壇にはゴブの写真を写頁立てに入れ、何枚も飾ってある。好きだったカリカリ、水、それに季節の華やいだ花に囲まれて、ゴブはいつも私たちと共にいる。

 時折、骨壺を抱っこし、話しかける。そのまま部屋の中を歩き回る。生前、よく覗いていた窓辺に立ち、外の景色を見せてやる。事情を知らない人の目に、それは鬼気迫る光景として映るのか、それとも滑稽に映るのか。

 喪失の涙は、一年以上たった今も、突然あふれ返る。ひとりでいる時、号泣することも幾度となくある。

 ものごとは常に流れていく。変遷していく。いっときも同じ場所にとどまってはいない。そうわかっていて、一匹の三毛猫と共に生きた十七年の歳月を、私はそっくりそのまま、記憶の氷柱の中に閉じこめている。色褪せることのないそれらの記憶は、私が生きた足跡、証でもある。

 泣く、思い出す、また泣く・・・・・そして時が流れる。何もかもが流れすぎていく中で、十七年という時間だけが、ひっそりと温かく、そこだけ日が射している縁側の日溜りのようになって、私と共にある。

小池真理子(こいけ・まりこ) 1952年東京生まれ。成蹊大学文学部卒。89年『妻の女友達』(集英社)で日本推理作家協会賞、96年『恋』(早川書房)で直木賞、98年『欲望』(新潮社)で島清恋愛文学賞を受賞。著者に『プワゾンの匂う女』(徳間書店)、『無伴奏』(集英社)、『柩の中の猫』(新潮文庫・集英社文庫)、『冬の伽藍』(講談社)、『水の翼』(幻冬舎・新潮文庫)、『天の刻』(文芸春秋)、など多数。現在、軽井沢在住。 *『ねこ新聞』04年5月号(51号)にゴブちゃんの最後の様子を夫君藤田宜永さんが「はじめての