「私は母猫か」      石坂 啓(漫画家)

 「チャルミ」という変な名前の猫がいる。

 三年前の春のことだ。小学生だった息子がウヘウヘと喜びながら 「ママー、赤ちゃん猫〜!!」とダンボール箱を抱えてきた。うしろには同級生の男の子たち。

  「アチャー」と思った。私の猫好きが知られているせいで、息子がみつけたわけでもないのに友だちのだれかが猫を拾っちゃうと、みんなうちに持ち込まれる。またかよーと思いながらも箱をのぞくと、モソモソと小っちゃいのがみっつ。

 かわいすぎ!!

 でもまだ目もあいていないしヘソの緒がついたままの子もいる。生まれて三、四日くらいだろう。母猫から離して捨てた人がいることが許せない。この大きさの子は助けられるかどうか自信がないが、とにかく預ることにしてすぐに猫用粉ミルクを買いに走る。

 先住のオトナ猫たちが巨大な別生物に見える。息子はもううちで飼うつもりでニッコニコだが、全部は無理だ。目があいて、自分でエサが食べられるようになれば大丈夫、それまでにもらい手を捜せばいい。だからできるだけ情が移らないように、名前をつけないことにした。

 茶色でうっすらとシマのあるチャー坊、ミケのミー坊、キジ色の子は風邪気味なのでルル。みんな女の子だけど「坊」でいいのだ。呼ぶだけだから。待ったナシで私は赤ちゃん猫にかかりっきりになった。

 哺乳ビンでうまくミルクが飲めればいいが、できないコにはスポイトで少しずつ。ミルクはやや熱めの温度を保たなければいけないし、こぼれると毛が固まっちゃうので、これはウーロン茶をあたためたものにガーゼを浸してそっとふく。

 オシッコもウンチも自分ではまだできないので、親猫が舐めてやるようにそっとガーゼで刺激してやる。一匹ずつ順番に面倒をみていると、ほとんど寝ている時間がない。母猫になったような気分だ。でも赤ちゃん猫はミルクがお腹に入るとそれがそのまま次の大きさになるような成長のしかたで、わかりやすくて張り合いがある。

 ルルだけは鼻が詰まっていて上手にミルクが飲めない。かかりつけの医師に来てもらうが、この大きさの子には薬は使えないからとにかくミルクをとらせるようにと、ものすごく細いビニールの管を口から胃まで入れてやって、針をとった注射器でチューブにミルクを流し込んでくれた。

 へえー、そんなふうにしてくれるんだと感心して見ていたら「じゃあこれ、置いときますから」と先生。えーっ、わ、私がやるんですか!?チューブと注射器!?

 こんな小っちゃな子のどのへんが胃なのかわからない。でもやるしかない。おっかなビックリで、でも必死で、ルルにミルクをやる。母猫の方がまだ楽だった。私はナースか。鼻詰まりを治してやるための水を通す方法も教わった。でもちびちびの鼻を濡らすのがかわいそうで、吸ってやった方が早い。もう何でもしてあげる気になっていた。

 結果から言うと、もともとウィルスを持っていたらしく、三匹とも助からなかった。いちばん弱かったルルがいちばん最後まで頑張った。それでも十日間ほどだった。三匹とももう少しで目をあきそうだった。目がパッチリしたらどんなにかわいかったことだろう。三匹とも一度に死んじゃうのなら、泣くのも一度ですむ。順番に送ることになったから、三回大泣きした。息子も一緒に泣いた。子供たちもみんな、お別れに来た。

 その二ヶ月後、また息子の友だちが運動場で子猫を見つけてきたのだ。

 私は用心してかかった。また泣くことになるのはイヤだ。こんどの子は、目があいているという。息子が抱えてきた小っちゃい子を見て驚いた。まるで三匹が一緒になったような色の子で、ミケちゃんだけど茶の部分には薄いシマがあり、鼻の頭はルルと同じネズミ色。これは・・・飼わないわけにはいかないだろう。

 「ミルチャ・・・ルミチャ・・・チャルミ・・・」

 名前は息子がつけた。息子はチャルミを溺愛している。チャルミもよくわかってて、家の中では大いばりの甘えん坊だ。いいのだ。

 三匹分愛されてかわいがられて、三匹分幸せに生きる猫なのだ。

石坂 啓(いしざか・けい) 1956年名古屋生まれ。78年に上京し、手塚治虫氏に師事。翌年『とろりんなんぼく』でデビュー。主な作品に、『キスより簡単』(小学館)、『正しい戦争』(集英社)など。99年『アイム・ホーム』(小学館)で文化庁漫画部門で「メディア芸術賞」を受賞。91年に男の子を出産後、ひとりでも書けるエッセーに挑戦。エッセイ集『赤ちゃんが来た』(朝日新聞社)は、大ベストセラーに。その他の著書に、『家ねこ外ねこ みんなのねこ』(小学館)、『お金の思い出』(新潮社)、『学校に行かなければ 死なずにすんだ 子ども』(幻冬舎)など。 ピースボートの水先案内人として北朝鮮を2度訪れた経験も。昨年は「イラク戦争反対と表現の自由」を掲げて48時間のハンガーストライキに突入し、戦争が終わるまで白米・パン・肉を断っていた。