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「猫は木から落ちるか」 三木 卓
今日の夕方、JR四谷駅のプラットホームに立っていたら、一匹の猫が歩いているのを見た。
あの駅は谷底にある。そこから古い赤レンガの壁がそびえていて、それが上にかかっている歩道橋を支えている。猫は赤レンガの壁と橋下の間に、たまたま出来ている細いコンクリートのへりを歩いていた。プラットホームから見ると十数メートルも高い場所で、思わず息をの呑んだ。
やがてヘリの角まで来た。へりは直角に折れていて、その先はもちろん宙空である。猫はどうするのか。
すると猫は、その突出した角で身体をまげて、角に沿ってまがった。そしてまた次に来る直角をさりげなくまた跨いで、その向うに開けている小さな雑草原に入り込んだ。つまりほんの一瞬ではあるが、猫はL型の間にある空間を、斜めに横切ったのである。
一歩、踏み外せば、転落である。ぼくたちも、そしてもちろんヒッチコックも、その危険を無視できるとはとうてい思わない。しかし、猫はそこを歩行の続きとしてしか認識しないで、実に自然に、そのならく奈落を横切っていった。
白と黒の、すこしも可愛くない猫だった。猫はそのまま都会の片隅に、自然にできた小さな草原に入ると、そのままゴロンと横になった。それで、下からでは背中のあたりしか見えなくなったが、からだは微かに呼吸で動いている気配である。のんびりと昼寝を始めたようだ。あたりまえの続きなのである。その動じない態度に、ぼくは、さすがは猫だと感心した。
ぼくが見ているときの猫は、たいていの場合なかなか格好よくふるまっている。当人は、ぼくに見られていることを、どう意識しているのかわからないが、ぜんぜん意識していないとは思われない。あくびひとつするにも、伸びをひとつするにも、ちゃんと絵になっている。小型の猛獣としての威厳と可愛さを、ぼくはその態度から感じざるを得ない。猫より自分の魅力をみせるのが下手な女性はたくさんいて、そのことを思うと、猫はなかなかなものだと思う。
だが、かっぱ河童の川流れ、猿も木から落ちる、ではないが、猫だっていつもゆうゆうとL字空間を横切るわけではないし、ときにはヘマをやらかす。
これはもう二十年ぐらい前のことだが、二階の仕事場の窓から、下を眺めていたときだった。植え込みの中で、突然大騒ぎが起った。何事か。すると、いきなり猫が飛び出してきた。伸ばした前足で、何かを押さえている。
一匹の雀が両足のしたに入っていて、必死でバタバタしている。なるほど。
ぼくはそれまで、猫が小鳥を捕まえる瞬間に出会ったことがなかったから、余計に感心した。ほんとうにこうやって小鳥を取るのだ。
しかし、次の瞬間、思いがけないことが起った。押さえ方がおかしかったのか、雀が飛び立ってしまった。雀は空に消えた。
なるほど。こういうことも起る。
ぼくはおかしくなって、ワハハ、と声を出して笑った。すると、そのとたん、猫が二階にいるぼくのほうを振り向き、見上げた。そして、実に味わい深い声で、「にゃあ」
と啼いた。
それは、〈わたし、ヘマして獲物を逃してしまいましたよ〉という悔しさの表れだが、どうじに〈お前さん、見ていたのね〉という具合の悪さの表れでもあった、とぼくは感じた。悪いけれど、ぼくはとても愉快だった。
三浦半島に住んでいたときには、しばしば猫が車にひ轢かれた現場に出会った。運転手さんの体験では、やられるのは猫とたぬき狸だそうである。猫は道の途中でもどることができない。犬はもどることができる。それが差だという。こういうヘマもある。
秋谷郵便局前の道路で、車にはねられた直後の子猫を見たことがある。ヨロヨロしながら郵便局横の茂みに入っていき、そこに両足をきちんとそろえて横たわった。歩けたのだから助かるか、と思って、しゃがんで見守っていたが、やがて息絶えてしまった。だがこの最後は、野獣の威厳を感じさせる身の処し方だった。
三木 卓(みき・たく)詩人・作家・童話作家
1935年東京都生まれ。静岡県出身。早稲田大学文学部露文科卒業。詩誌「氾」「現代詩」を中心に詩作活動を行い、67年に詩集『東京午前三時』(思潮社)でH氏賞、71年『わがキディ・ランド』(思潮社)で高見順賞、73年に小説『鶸』(集英社)で芥川賞、97年『イヌのヒロシ』(理論社)で山本有三記念路傍の石文学賞を受賞など。主な著書に『路地』(講談社)、『柴笛と地図』(集英社)、児童書『おおやさんはねこ』(大日本図書)、絵童話『はりがねネコ』(ポプラ社)、など。
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