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「孤児ガリちゃん」 井筒和幸
今はうちに猫はいませんが、うちの奈良の実家には昔、小生が小学生の頃から猫がいました。
妹と二人兄妹だったので一人ずつにと、白黒のぶち斑猫を雄と雌で二匹、何処かの誰かから貰った訳でした。じゃれ合う猫たちを見て兄妹は育ちました。
よく母は、「猫の顔見てたらく苦ぅ忘れるってなぁ」と自分に呟くように云いながら教えてくれました。まだ子供だし、苦労など体験したこともないのに、なんだか確かにそんな気持ちにもなったようでした。
やがて、二匹はオスとメスのなせるまま、子猫を何匹も産んでいました。近親相姦という言葉は無論、知りません。でも何とも子猫らに囲まれた二匹は嬉しそうでした。
そのうち、またその子猫の一匹が子猫を何匹か産んでいました。家出を繰り返して行方不明になって戻ってこないままの子猫もいたし、早死にする虚弱体質の子もいました。ケモノの近親婚を目の当たりにすることもありました。小生が成人した頃、家には十匹ぐらいになっていて、ちょっとした猫の保育園でした。
冬の朝、布団の中で、自分の手が重いのでまくってみると四、五匹が親兄弟家族で一つに重なり合って熟睡していて、それが何とも幸福そうでした。「苦ぅを忘れるよう
な熟睡」を見ながら、青春の何とも知らない「苦」が小生にも始まっていた頃でした。
二十代になって好きな映画を細々と自分で撮り出し始めた頃、とある夜のどしゃ降りの土手道を車で走っていて、赤信号で止まった時に、何処からか鳴き声がするので、ドアを開けて車の下を覗き込むと、ガリガリに瘠せた子猫が一匹、号泣しながらブルブルと震えてました。小生の差し出す手を待っていたかのように、触れてやると泣き声がピタリと止まり、「何とか今晩お願いします」と云っているようなその飛び出しそうな眼と眼が合ってしまい、仕方なく家に連れて帰った訳です。
先輩格の十匹が一斉に、その新入りの鳴き声に注目して寄り集まってきました。その黒と茶とこげ茶の斑毛のガリガリにミルクの皿を置いてやると、舐めるなんかではなく、まさしく噛み付くようでした。母が、
「このガリちゃん、死ぬ一歩手前やったなぁ」と云いました。
次の日から、その新入りは「ガリちゃん」と名付けられました。タマやチーやミイやミーコやクロやトラやんやオッサンら先代猫一家に守られながら実に仲良くそのガリ子も育てられました。
やがてそれから、猫一家はさらに家族を増やし続けて、放蕩息子も行方不明の家出娘も輩出させて、出入りを繰り広げながら、一時は十五匹ぐらいの養護施設のようでした。
十年ぐらい経つと、もうすっかりガリちゃんの一族が先代に取って代わり、名付けられた名前とは裏腹にふくよかな大猫に成熟した多産系のガリさんは、まさに一家の長老になっていました。何十匹も産み何匹も死なせて、ガリさんはそれでも幸せ一杯のようでした。
ある日、ガリさんの姿が忽然と消えてから何日もたっていたのですが、母の部屋のファンシーケースの中で、獣にありがちな惨たらしい姿かたちでは決してなく、ガリさんらしい雌の安らかな死に顔で横たわってました。死んでも柔らかくふくよかなガリお婆さんは、見事に幸せに生きたのでした。
それから、急に残された猫一族は後を追うように一家離散していきました。小生の実家はそれから猫を飼わないようになりました。
実家に一人暮らしの老母は、時折り縁側に寄ってくる野良猫クンを見つけると話しかけています。 「はい、こんにちわ」。
井筒 和幸(いづつ・かずゆき)1952年 奈良県生まれ。映画監督。 高校在学中より、8ミリ映画を製作。監督のほか、脚本・監修作品も多数製作。現実に根ざした娯楽映画作品を世に送り出し続けている。81年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞受賞。85年「二代目はクリスチャン」96年「岸和田少年愚連隊」98年「のど自慢」03年「ゲロッパ!」など代表作多数。
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