「高橋オヤ」一代記      高橋玄洋(脚本家)


 名前は他と区別するための記号である。子と区別するためにオヤと呼んだ。十六年前のことである。床下でおかしな音がすると思ったら親猫が二匹の仔猫と産まれたばかりの乳飲み子四匹を従えて軒下に現れた。乳飲み子はまだ目も見えない。本人を入れて合計七匹、とても我が家では手におえない。心を鬼にして餌をやらずに立ち去るのを待とうと結論が出た頃、親猫の姿が突然消えた。無責任な母親だと怒りながらも目の前で乳飲み子が餓えるのを見ているわけにもいかない。ガーゼにミルクを含ませ何とかもたせた3日目、親猫は首に紐を付けて帰ってきた。「ギヤオー!」親子再会の愁嘆場である。餌を捜しに出かけ括られて帰るに帰れなかったに違いない。その紐を噛み切りやっとの思いで帰って来たのだ。その心情を思うと飼わないわけにはいかない。わが家は突然七匹の猫屋敷に変貌することとなった。

 オヤの失踪には後日談がある。これ以上増えたら大変とさっそく避妊手術を受けさせたのだが、その晩犬猫病院から電話が掛かった。

 「お宅の猫ちゃんはもう手術してありました」。

 前後を考えると失踪の3日間しかありえない。誰か奇特な人により手術を受け、そのため帰れなかったのだ。それも開腹して分かったという。人間の勝手な都合で二度までも開腹させたとあっては、贖罪としても最高の人生(いや猫生)を送らせてやらねばなるまい。オヤと私の正面きっての邂逅だった。

 オヤは白に黒のベレー帽という典型的な雑種日本猫である。毛が長く柔らかで性格も淡白、さしてベタベタもしないが気が向けばノッソリと膝に上って甘える。警戒心のなさからして生来の野良とは思い難く、何かの事情で捨てられ、わが家の床下に迷いこんだものらしい。用がなければ殆ど鳴くこともなく、後半生では何かを訴える時も目と口で鳴いてみせるものの声には出さなかった。

 家猫になってからは庭も近所の野良に占領され、濡れ縁で私とのんびり日向ぼっこをするのが唯一の野外生活だった。お互いに最も平安な一時だったろう。

 「垣根の向うを日傘が通っていくよ」

 ふり返って私に教える目が今も忘れられない。

 ガンを宣告されたのは去年の十一月の初めだった。推定十八才の高齢でもあり手術が成功しても疑問が残るというので、楽な天寿のまっとうを願って在宅延命の道を選ぶこととした。幸い親身な医師団に恵まれ、抜水、補液など可能な限りの治療を試みながらも「苦しみなしに」をモットーに最期の見取りが始まった。薬はもちろん照明、温度、湿度と可能な限りの好条件を保ってその日を待つしかない。医師の予測は正月を越せるかどうかだったから、用意した年賀状も書く気がせず、気がつけば般若心経を口の中で繰り返す日々が続いた。祈りはただ苦しみのないこと、それだけを祈った。

 師走に入ると寝返りも大儀になり、大好きだった貝柱のスープも喉を通らず、小水の一滴にも一喜一憂が続いた。呼吸が荒くないのがせめてもの救いだった。

 オヤもこちらの顔色を察してか、正月三ケ日を頑張り抜き、四日の未明静かに息を引き取った。驚いたのはその直後、壮年期の凛々しいオヤに戻ったことである。「よくがんばったな」今にも目を開けそうなその顔を見詰めながら、まずは医師団への感謝の報告が私のやらねばならぬ仕事だった。静かに墨をすりながら、改めて十六年の充実した日々を思った。「オヤよ、名前もつけずにごめんな」と心の中で詫びながら、野良で過ごすよりは少しは贖罪になったかと自己満足の言い訳にしている。

 それにしても、今もってスーパーの猫缶の前に立ち尽くすのはボケの始まりということか。

高橋玄洋(たかはし・げんよう) 脚本家・中川一政氏と出会いテレビを離れ文人生活を志す。現在、相原求一朗美術館・小泉淳作美術館館長。