「猫が結ぶ人の縁」 福原義春(資生堂名誉会長)


 プーが家に来て 二、三年経った頃のことだが、年中どこかへ出かけるようになって、滅多に帰って来なくなった。わが家は改築した時にキャットスルーをつけたので、いつでも出入り自由だが、小さい雌猫のミーはちゃんと帰って来ているのに、黒い雄猫のプーはたまにふらりと帰って、出しっぱなしのキャットフードを急いで食べ、逃げるようにまたどこかへ出かけて行くのだ。

 その謎は程なく解けた。隣の銀行の寮の管理人一家が引越の挨拶に来た。二人の娘さんが「本当はあの黒猫を連れて行きたいのだけれど」と別れを惜しんだ。プーは彼女たちの部屋に上り込んで帰って来なかった訳だ。

 プーは若い娘が好きなのだ。隣の姉妹がいなくなって、しばらくは元気がないように見えたが、そのうちにわが家の娘のあとをついて歩いて二階の彼女の部屋に入り浸り になった。

 娘が二階から降りて来ると、プーも一緒について来る。「あんたは犬じゃないんだよ」と私が言っても知らん顔だ。

 所がそのうちに朝になると出かけて夜には帰って来るようになった。朝と言っても早朝まだ暗いうちに出かけて縄張りを見廻っているのは判(わか)ったが、それからどこで何をしているのかは判らない。それに週末になると夜も帰って来ないのだ。

 ある日小唄の長生松代師匠から「この猫ちゃんはもしかしてお宅のプーではないか」と携帯電話の画像が届いた。全身黒で胸から腹にタキシードのような白い模様が入り、四本の足は "白い長靴" になっている。まさにわが家のプーだ。それにしてもどこかのベッドの上でリラックスしているじゃないか。

 やがてだんだん事情が判って来た。松代師匠の知人の建築家・石上申八郎さんは都内にお住まいだが、当時週末は逗子のアパートで過ごしておられた。そのアパートは私の家から歩いて四、五分はかかるのだが、すぐ近所に気立てのよいボス猫がいて、何匹かの猫たちがいつも集っているのだ。

 プーは世慣れているというか、物怖(ものお)じしないのですっかり石上家に上り込んで石上さんの家の猫たちとも仲良くやっていたのだ。

 わが家ではとくに愛想がいい訳でもないプーは、石上さんに「クロ、クロ」と呼ばれて可愛がられていたそうだ。

 ある時石上さんは私のエッセイ集『猫と小石とディアギレフ』を読んで、私がいかにして猫好きになったか、そして黒い野良の母猫が私の家に押し付けて行ったプーとミーのことを知った。そこで石上家にどこからか訪れる黒猫はもしや福原さんのプーではないかと私の小唄の師匠にメールを送ったのだった。

 ちなみにこのエッセイは後日改編して、「ねこ新聞」でも二〇〇一年秋に二回にわたって寄稿させて頂いた。

 こんな訳で石上さんとは資生堂パーラーで初めてお会いすることとなった。驚いたことに石上さんも私も本好き、映画好き、猫好きで全くのように趣味が一致する。石上さんは小唄を習っていて、母上の影響でよくいろいろな会に聞きに行かれる。もっと驚いたことに石上 さんはパリで修行中の若い頃、スペイン生まれの建築家リカルド・ボフィルに憧れてバルセロナの事務所にここで働きたいと訪ねて行ったそうだ。だから石上さんはボフィルの本も邦訳している。そのボフィルが今の資生堂パーラーの設計者なのだ。

 それではというので、ボフィルの設計を現場でディレクションした谷口江里也さんをお引き合わせした。谷口さんは建築家で、詩人でもあり、スペインにも何年か住んでいた。

 こうして黒猫プーは知らない人同士を次々と結びつけてしまった。

 それからは石上さんと私は時々会い、本や猫や美術の話をする。そして石上さんはとうとう私の小唄の松代師匠の会に出るようになった。ギターの弾ける人なので三味線も楽に覚えているらしい。

 石上さんとお会いするごとにクロは元気ですか、と挨拶される。クロことプーは結構離れた家に住む人間同士がこうして知り合ったのと関係なく、自分のペースは崩さない。今もまた朝から晩までどこかへ外出だか出勤だかしている。

 石上さんは、土日ごとにクロがやって来たのはその朝の物音や空気で判るのじゃないかと言う。猫は全く不思議な生きものである。



福原義春 (ふくはら・よしはる)
資生堂名誉会長。1931(昭和6)年、東京都生まれ。慶應義塾大学卒業。資生堂創業者・福原有信の孫。53年資生堂入社、同社社長・会長を歴任し、2001年より名誉会長。企業メセナ協議会会長、東京都写真美術館館長、文字・活字文化推進機構会長等、公職多数。旭日重光章、仏レジオン・ドヌール(グラン・トフィシエ)勲章、伊グランデ・ウフィチアーレ章等、受章多数。『多元価値経営の時代』『猫と小石とディアギレフ』『だから人は本を読む』等著書多数。