「トラの生涯」  夏目房之介(漫画コラムニスト)


 トラは、次男が小学生になった頃、近所で拾ってきた、まだ生まれたての虎縞の子猫だった。

 次男には抱かれてきたのに、大人の、とくに男性には敵意むきだしで、一人前にフーッと威嚇して怒った。ベッドの下に逃げ込んだ彼を、僕がひっかき傷だらけになって引きずり出し、妻がスポイトでミルクを飲ませた。

 トラが家にくる直前、長男がもらってきた猫がエイズで死んでいた。ふ さふさの尻尾の、りっぱなトラ猫で、多分洋猫の血を継ぐ、高貴な仁徳を感じさせる猫だった。彼の末期を、家族全員で見守った。妻や長男の喪失感は深く、彼らはトラを飼うことに反対した。

 でも、僕は何となく、トラが次男の猫としてやってきた気がして、飼うことに賛成した。

 片手に乗るほどに小さな生き物は、やがて大きなトラ猫となった。恩返しのつもりか、よくイモリやトカゲなどを半殺しで目の前に持ってきた。妻ははじめ「かわいそうだからダメ!」とか叱っていたが、そのうち「ありがとう、おいしいわ」などと食べるマネをして、後ろ手に隠して逃がしてやっていた。

 当時住んだマンションの部屋は一階で、小さな庭があり、トラはよく町 内を巡回していた。外で出会うと「トラ、トラ」と呼んでも、不審な顔をして僕を見つめ、寄ってこなかった。わかっていても、生来の警戒心の方が勝るのだろう。家でも、触られるのが苦手で、1分と抱かれていなかった。捨て猫だったトラウマが強かったのかもしれない。

 そのトラは、23年生きて、今年3月、東日本大地震の直後に大往生をとげた。20年生きる猫は稀だそうだ。

 20年の間に、僕と妻は離婚し、トラは離婚後引っ越した妻のマンションに次男とともに住み、おまけに次男が飼っていた老いた兎も同居した。やがて僕らは復縁し、週末に僕が妻の部屋に泊まる生活が続いた。

 部屋が2階で、目の前が交通量の多い幹線道路なので、トラはもう外出できなかったが、老いた彼にはさほど不都合はなかったようだ。時折、ベランダに出てぼんやりと外を眺め、すぐに部屋に戻ってきた。

 トラのストレスといえば、多分、ボケ老兎が乗りかかってマウンティン グし、背中を噛か まれることぐらいだったかもしれない。はじめは、猫パンチで撃退したが、次第にその力もなくなり、歩いて逃げても腰が落ちて、よたよたするようになった。

 晩年のトラは、風呂でタライの残り湯を飲み、風呂桶の蓋ふたの上で眠るようになった。驚いたことに、彼は体を冷やさないことが体調管理にいいことを本能的に知っていたらしい。

 トラが目に見えて弱っていくと、妻は心配で仕方ない様子で、外出も控えるようになった。あれほど触られることに神経質だったトラは、もはや抱かれても撫でられても、気持ち良さそうに身を任せるようになっていた。

 時間の問題となった頃、僕は心配する妻によく「捨て猫だったのに、ここまで可愛がってもらって、猫としては本当に幸せな生涯だと思うよ」と慰めた。実際、静かに眠るばかりのトラは、やせ細っていったが、自分の死を自然に受け入れ、泰然として見えた。

 3月中旬、僕は2週間海外に出かけた。直前に、妻と二人でトラを病院に連れてゆき、一日入院させ、いざというときのため葬儀のことなどをネットで調べ、妻に伝えて旅立った。

 訃報は、バリ島の山や まあい間の村のネットカフェで、妻からのEメールで知った。僕は、モニターの前で静かに泣いた。

 妻と、その場で彼を見送れなかったのは悲しかった。でも、妻はできることは全てやったし、トラは本当に幸せだったろうと思えた。人もまた、このように自然に逝けたら、と思う。

 トラは、猫として僕と家族の20年間を見てきた。僕は40歳から60歳になり、色んなことが変わった。トラは、そんな我々の変転をどう見ていたのだろう。いつか、あの世でトラに会ったら、感想を聞いてみたい気がする。案外「ふん」と鼻を鳴らすだけかも知れない。

 トラは客観的には凡庸な猫だったかもしれないが、僕ら家族にとっては大切で偉大な猫だった。


夏目房之介(なつめ・ふさのすけ)
漫画コラムニスト。1950(昭和25)年、東京都生まれ。72年に漫画家デ ビュー。73年に青山学院大学文学部を卒業し、エルム社入社、編集に携わる。副業として挿絵イラストを描き、76年に同社倒産後はフリーのイラストレーターとなる。『週刊朝日』に78年から「デキゴトロジー・イラス トレイテッド」、82年から「ナンデモロジー學問」連載。NHK「土曜倶楽部」「人間大学」「BSマンガ夜話」等で漫画解説・評論を展開。著書に『マンガに人生を学んで何が悪い?』『孫が読む漱石』『書って何だろう?』等多数。父純一(バイオリン奏者)は夏目漱石の長男。99年に、マンガ批評への貢献により、朝日新聞社・手塚治虫文化賞特別賞受賞。学習院大学教授・花園大学客員教授。